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2025年11月6日
私の母は、現在86歳になります。歯がそろい、何でも食べられる元気な人で、私が歯科医師として開業してからも口腔ケアを徹底してきました。毎日の口腔ケアや定期的な管理を欠かさず、まさに「口腔ケアの模範」といえる存在でした。そんな母を見て、私は「やはり口腔の健康は全身の健康を支える」と信じてきました。
しかし、現実は思いがけないかたちで私たち家族を揺さぶりました。
7年前のある日、母は自転車に乗った女子高生と正面衝突し、転倒して背骨の骨折のため入院しました。
相手は「ながらスマホ」をしており、泣きじゃくる彼女に対して、母は「かわいそうだから責めないであげて」と声をかけたのです。被害者でありながら加害者を思いやる母の優しさは、今でも心に残っています。幸い命に別状はなく、圧迫骨折の治療を受けて退院できましたが、この事故を境に少しずつ母の認知機能の低下が始まりました。
ずっと専業主婦で美味しいおかずを持たせてくれたりした母が料理ができなくなってきました。日曜日に作り置きのきくおかずを一緒に作ったりしてみましたがにこにこして見てるだけになっていき、それまで楽しみにしていた俳句仲間との句会に行けなくなり、日常生活の中でも着替えなどに支援が必要となり、父や私が仕事をしている日中はデイサービスに通うようになりました。
夫は花の宮で別の診療所をしているのですが、自分のことはいいからご両親の介護をしてあげたらいいよと言ってくれたので、週末以外は別居して、毎朝5時に食事の準備をして朝ご飯と晩御飯のおかずをタッパーで持参し、診療前に父と母の朝食を準備し、母の着替えを整えてデイサービスに送り出してから医院へ向かう日々が続きました。診療後父母と夕食を食べ片付けをして帰宅する毎日でした。介護と仕事の両立は、毎日が綱渡りのようでした。
そして3年前の12月、さらなる試練が待っていました。
朝食の時間になっても、両親が現れません(このころには医院のビルの1室を介護室にしてそこに父母が来て食事をして着替えをさせていました)不審に思って医院の隣にある実家を訪ねると、2階の寝室で二人が倒れていたのです。母に布団をかけようとして父がバランスを崩し、起き上がろうとするうちにベッドと壁の間にはさまれて動けなくなっていました。
脳出血などの可能性も考えられ、無理に起こすことはできません。救急車を呼び、かかりつけ内科で点滴を受け、その後知り合いの整形外科に検査入院。やがてクラッシュ症候群と診断され、県立中央病院のICUに搬送されました。当時長男は内科医師として陶病院に勤務しており、その妻はちょうど県立中央病院で初期研修医をしていました。二人の存在は本当に心強いものでした。
長男からは「3分の1の確率で亡くなる、3分の1の確率で透析生活になる、3分の1で回復する」と説明され、家族で覚悟を迫られました。それでも父は3週間のICU治療を乗り越え、一般病棟へ移り、やがて退院することができました。
父が倒れたその日、午前の診療は勤務医の先生にお願いし、予約を調整していただいてなんとか乗り越えました。しかし午後にはインプラントオペが予定されていました。患者さんはこの日のために仕事を休み、体調を整えて来院される予定でした。さすがにその治療を延期することはできず、私は予定通り集中して手術に臨みました。
一方で長男は午前中に自分の内科外来を終え、午後の在宅往診を予約変更して父の付き添いを担ってくれました。さらに転院後は、長男の妻が毎日病棟を訪れて回診を行い、声をかけ続けてくれました。医療者である家族がそれぞれの立場で力を尽くしてくれたことは、私にとって何よりの支えでした。大変な状況ではありましたが、今振り返れば家族の絆を確かめ合えた貴重な時間でもあります。私は長男夫婦に心から感謝しています。
父の入院中、母が外に出てしまったことがありました。自動ロックのため家に戻れず、12月の寒さの中、雪が舞う駐車場で私の車の陰に座っている母を見つけました。いつもは父が見守ってくれていましたが、その父が入院中で不在、見守りができておらず私の診療中にふらふらと外に出てしまったのです。在宅介護の難しさを改めて痛感しました。
診療後は母を自分のマンションに連れて帰りましたが、診療中はどうしても目を離さざるを得ません。結局、年末に体験入居を申し込んでいたサービス付き高齢者住宅にお願いして預かっていただくことになりました。とにかく、介護と診療の両立は毎日が必死でした。
母は口腔ケアが完璧で、歯も揃っており、食べる力も十分にありました。それでも事故をきっかけに認知症が進行してしまいました。この経験があるからこそ、私は「口腔ケアをすれば認知症を防げる」と単純に語ることに抵抗があります。
しかし一方で、多くの研究では「歯の残存数が多い人」「しっかり噛める人」のほうが認知症のリスクが低いことが示されています。つまり、母のように防げないケースもある一方で、口腔ケアが認知症予防の一助となるのは間違いありません。
介護を通して私は、「できることをしっかり続けることの大切さ」と「それでも防げない現実があること」の両方を学びました。口腔ケアは確かに認知症予防に役立ちますが、それだけでは限界もあります。だからこそ、私は再生医療や新しい認知症治療の研究を応援したいと考えています。最近は再生医療分野の研究が、外傷性脳損傷、慢性期脳梗塞などの運動機能回復の臨床研究が進んでいるそうです。認知機能低下への応用可能性を期待しています。
母が示した優しさ、父の回復を家族で支え合った経験、そして長男夫婦への感謝。これらは私にとって介護の苦しさと同時にかけがえのない「家族の思い出」となりました。
歯科医師として、私はこれからも正直に伝えたいと思います。「口腔の健康は認知症予防に役立つ。しかしそれだけではなく、研究や治療の進歩も必要だ」と。母の姿を胸に、未来の医療に希望を託しながら、日々の診療を続けていきたいと思います。