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2026年9月3日
訪問歯科診療を続けていると、「口腔ケアの大切さ」と「ご本人の意思を尊重すること」の間で、深く悩む場面があります。
口腔ケアは、歯をきれいにするためだけのものではありません。歯や入れ歯、舌を清潔に保つことで口臭を軽減し、誤嚥性肺炎の予防にもつながる大切な医療です。
そのため、ご家族が「何とか口腔ケアを続けてほしい」と願われるのは当然のことです。
しかし、認知症が進行すると、これまで受け入れてくださっていた口腔ケアを突然嫌がるようになることがあります。
そのような出来事が、先日続けてありました。
一人は、施設に入所されている男性の患者様です。
息子様が当院で定期的に口腔ケアを受けてくださっており、お父様の施設が当院の近くというご縁から、数年前より訪問歯科をご依頼いただきました。
お口の中は歯ぐきが大きく腫れ、口臭も強く、歯科衛生士が2~3年間、定期的に口腔ケアを続けてきました。
少しでも気持ちよく食事をしていただきたい。
誤嚥性肺炎を予防したい。
そんな思いで通っていました。
ところが、認知機能の低下が進むにつれて、少しずつ口腔ケアを嫌がるようになりました。
ある日、歯科衛生士の手を強く押し返されました。
施設の方からは、「訪問診療に来ていた内科の先生を噛んでしまったこともありました」と伺っていました。
認知症では、不安や恐怖が強くなることで、攻撃的な行動が現れることがあります。
もちろん、お口の状態を考えれば、口腔ケアは続けたい。
しかし、ご本人が強く拒否され、スタッフがけがをする危険性もあります。
ご本人の意思を無視してまで続けることが、本当にその方のためになるのだろうか。
ご家族とも相談し、この患者様の口腔ケアは一旦中止することにしました。
これは決して「あきらめた」ということではありません。
今はその時期ではないと判断し、ご本人の尊厳と安全を優先したという選択でした。
そして昨日は、また別の患者様でした。
娘様が、お母様の口臭や入れ歯を心配され、診療所まで連れて来てくださいました。
ところが、レントゲン室に入ったところで急に興奮され、診療所から出て行ってしまわれました。
慣れない環境では不安が強くなることがあります。
そこで娘様から、「自宅なら安心して診てもらえるような気がします」と訪問歯科診療をご希望いただき、別日にご自宅へ伺いました。
しかし、ご自宅でも興奮され、「帰ってもらって」と娘様に怒りをぶつけ始められました。
これ以上続けることは、ご本人にも、ご家族にも負担になると判断し、その日の診療は中止しました。
口臭の原因として、舌の上に厚く付着した舌苔も考えられたため、娘様には舌ブラシの使い方をご説明し、ご自宅でできる範囲のケアをお願いしました。
帰り際には、
「お口が腫れたり痛くなったり、困ったことがあったら、いつでも診せてもらうね。」
そうお伝えして帰りました。
実は、この患者様は15年以上当院に通ってくださった患者様です。
診療中には、お孫さんのお話を楽しそうに聞かせてくださり、いつも穏やかな笑顔で来院されていました。
長い年月をご一緒してきた患者様です。
だからこそ、「帰ってもらって」と言われた時は、正直、とても寂しい気持ちになりました。
「私のこと、忘れてしまったのかな。」
そんな思いも頭をよぎりました。
でも、それは病気がそうさせているのであって、ご本人の本当の気持ちではないのかもしれません。
認知症になると、人を認識することや状況を理解することが難しくなります。
長年通い慣れた歯科医院の先生であっても、「知らない人が口の中を触ろうとしている」と感じてしまうことがあります。
また、自分の不安や恐怖をうまく言葉で表現できず、「嫌だ」という感情だけが強く表れることもあります。
だから私は、ご本人がまだ意思を表現できるうちは、その気持ちも尊重したいと思っています。
もちろん、痛みがある、腫れている、食事ができないなど、治療が必要な場面では、ご本人やご家族と相談しながら最善の方法を考えます。
しかし、無理に口腔ケアを行うことで、ご本人の恐怖心を強めたり、医療への信頼を失ったりするのであれば、それは本当に良い医療とは言えないのではないかと思うのです。
私自身、施設で暮らす父や、終末期を迎えた母の口腔ケアを続けてきました。
だからこそ、ご家族が「少しでも口の中をきれいにしてあげたい」「誤嚥性肺炎を防ぎたい」「口臭を何とかしてあげたい」と願うお気持ちは、本当によく分かります。
その思いは、ご本人を大切に思う愛情そのものです。
私たち医療者も、その思いに応えたいと願っています。
しかし、認知症という病気は、医学的な正しさだけでは乗り越えられない場面があります。
情動が大きく揺れ動く時期には、今日はできなくても、数週間後、数か月後には穏やかに診療を受け入れてくださることもあります。
だから私は、「今は待つ」という選択も医療の一つだと思っています。
昨日の帰り道、「これで良かったのだろうか」と何度も自問しました。
もっとできることがあったのではないか。
また別の日なら診せていただけたのではないか。
そんな思いは今もあります。
それでも、ご本人が「嫌だ」と伝えられるうちは、その意思を尊重したい。
無理に押さえつけて口腔ケアをすることよりも、その方らしく穏やかに過ごしていただくことの方が大切な場面もあると思うのです。
訪問歯科は、歯を治療するだけではありません。
ご本人の尊厳を守り、ご家族の思いに寄り添い、介護職や医療職の皆さんと力を合わせながら、その方にとって最善の方法を一緒に考えていく医療です。
私は、このご縁が終わったとは思っていません。
困った時、痛みが出た時、ご家族が不安になった時、「また先生に相談しよう」と思っていただける存在であり続けたいと思っています。
認知症の患者様を支える医療には、治療する力だけではなく、待つ力、寄り添う力、そしてご本人の人生を尊重する姿勢が求められます。
これからも患者様お一人おひとり、そのご家族お一人おひとりの思いを大切にしながら、訪問歯科診療を続けていきたいと思います。
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